ふと思い出して私は訊いた。「粘着する奴が、もうひとり居たんだっけ」
「ああ、友人みたいだが、双方で褒めあっている。類は友を呼ぶと言うやつだな」
類は友を呼ぶと言うのか。私はずっと、類は類を呼ぶと言っていた。こういう場合はそちらが雰囲気に合っていると思うが、続けて訊いた。
「そいつの粘着はまた違った種類なのか」
「こっちはさすがに多少は大人しいのだが、基本的に同じだ。追い記事書きだな」
「なんだ追い記事って」
「ある種の技法についてちょっと書くとするだろ。するとそれについては自分の方がよく知っていると言う感じの記事を上げてくる」
成る程その類なら知っている。誰でも多少はそう言うところがある。だがそれもやっぱり程度問題なのだ。
「頻繁なのか」
「何度かあって、それとなく警告したらし以後は止んだ。その後はこちらがアクセスしないので知らない。しかし基本的には同じ類だろうな」
「アクセスしないのなら、向こうで何を書いているか知れないのだな」
「知らん」
「気にならないのか」
「ならん。ならんけど、こいつのしょうもないところは、その追い記事を作るのに他人の記事から似たところを引っ張ってくるんだ。作例なども自分で描いたものじゃない、他の有名な人の記事から引用するんだな」
「画像なんかも使っているのか」
「自分に描けるようなものじゃないからね」
「ありなんだそう言うの」
「さあね、俺はやったことないから知らんがね、誰それからの引用と断っておくと構わないのかも知れん。それにしても俺はそんなことはしない。記事を書くなら必ず自分で作例を描く。それが誰かを参考にしているかどうかはともかく自分で描いたもので記事を書く。でなきゃ記事なんて言えん」
でもね、と彼は言う。もう止めるんだし、どうでも良い。別に商売になる訳でもなし、以後は余計な時間を無駄にしないで済むと。
しかし私は違う。小説を書く上でも色んな種類の人間は観察して置きたいのだ。
2023年4月24日月曜日
粘着質--12
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